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嵐の5月 母が亡くなる

この記事では、壮絶な2019年の5月の事件を記録してみました。

5月3日
群馬県の華蔵寺公園へ久々に家族4人で家族レジャー。

5月4日
息子の中学のハンドボールの大会。応援に行く。

お昼すぎに見覚えのない番号から電話。
実家近くの民生委員さんからの電話だった。
母が事故で病院に運ばれたという。
詳細はご存じないとのこと。
それを聞いたとき、「今日の事ですか⁉」と聞いてしまった。
情けないことに感情的な行き違いがあって
母とは半年間も疎遠状態だったからだ。
とりあえず高速で駆けつける。

主治医の説明を受ける。
脳挫傷で多数出血があり、
見当識障害が見られるとのこと。
(事故の詳細は本人に記憶がなく、不明。
警察に連絡を取るように言われた。)

ドキドキしながら母と会う。
混乱しながら入院の為の書類を山のように書く。
被害者の方に取り急ぎ謝罪の電話を。
警察で話を聞く。

最近母が身を寄せてお世話になっていたおばから
「(私の母が)まだ帰ってこない」と心配の電話が。
帰ってくると思っていたのにこんな事態になっていることを話す。
おば、絶句。そらー驚くわね。
おばちゃんごめんなさい。
その日帰宅できたのが10時半!

5月5日
身の回りのいろいろを買い物して
しまむらで下着7枚(半年も会ってもらえてなかったから今のサイズがわからん!)
病院で昨日のCTと比較して説明を受ける。
とりあえず手術は必要ないようで、様子を見ていくと。
長くかかるであろうし(その時の見立てでころ2~3か月見込み)
一人での生活はもう無理だと。
脳に損傷があるということで、
今後良くないことが次々起こるであろうこと。
いつ何があってもおかしくないので
ある程度の覚悟をしておくことと。

何コレ?現実なの?
ひとまず病室へ。
ぽやんとした母。手を繋ぎ、
「もう何の心配もいらないから元気になろうね」
と伝えるとろれつの回らない口調で
「今まで辛かったよー。もう死にたい」と泣く。
気丈だった母は、そんなこと言う人じゃなかった。
長女(姉)、夫(父)、実の弟(叔父)を
3年続けて一年おきに亡くしてから、
ここ数年すっかり人が変わってしまっていた。

辛かったことを全て忘れてしまえていたら良かったのにね、お母さん。
ケースワーカーさんと今までのこととこれからの事を話す。
母の話より、私の話を泣きながらしている時間が長かったような・・・w

5月6日
前あきの下着の方が良いかも?とアドバイスのもと、必死に探しあるいたけど、
意外にも近隣に売ってなかったためAmazonでポチる。介護用下着お高い!

5月7日
洗濯物を取りに病院に(母寝てる。いつ行っても寝てたw)
その帰りに任意保険から衝撃の電話!
保険の名義が変わってなかったこと
(父名義で配偶者特約のままだった)
しかし申請はしていたのでむこうの手落ち。
しかし、もう1つ問題が。
母が口座管理できてなかった為、未納があった。
が、その後の保険料は口座から落ちている。よくわからない状態。
で保険が使えないかもしれない。
協議中とのこと。

はぁぁぁ⁉
一気にふたばのライフが減る。
「夜逃げ」が頭をよぎる。
この辺から日付けもやらねばなことも分からなくなる。
とりあえずかたっぱしメモる。
あまりの量にどこに何を書いたかわからんくなるw
被害者の方に保険屋から保障が保留と連絡が入る。
当然ご立腹。
(だよなぁ。私もそんなんブチ切れるわ)
やる気のない保険屋と被害者の板挟みになりながら
生命保険やら警察やら介護認定のアポやら病院に呼ばれたり。
曜日も分からない位忙しくなる。

ずっと母が居候してお世話になってた母の実の妹を往復2時間かけてお見舞いの送迎。
鬱病のおばの心を励ます。
その間もひっきりなしに電話応対。

私がやらなきゃ!どーにかしなきゃ!でも逃げたい!
と葛藤しながら日々をやり過ごす。

ちびこの保育園の親子遠足にフラフラで行く。
アドレナリンを無理やり出し、
気力ガソリンの前借りしすぎて徐々に体がついてこなくなる。
1日1つだけ用をこなそうと決めた。

母が安定してきて急性期病棟から一般病棟へ移動。の2日後

5月17日
朝6時前に病院から電話。
「容態が急変したのですぐ来てください」と。
「どんな容態ですか?」と聞いても
「とにかく来てください」と教えてくれず、
ドキドキしながらとりあえず行く。
案内された病棟の処置室。
「こちらです」と言われたそこにはタオルケットを全身にかけられた母がいた。

ちょっと長い連ツイです。
https://twitter.com/futaba_niji/status/1129172094523068417?s=20
激しい慟哭の後、主治医の説明を受ける。
死因が分からないとのことで警察の聴取。いやだぁ!もうそんな体力ないよ!
私は既に体が限界でナースに枕とアイスノンと冷えピタと布団を借りて
繋げた椅子に横になりながら話をする
(こんな格好ですみませんと謝りつつw)
司法解剖をしたいと言われるが、
生前父と一緒に登録した
献体が出来なくなるのでやめてくれと頼み込む。
病理解剖も断る。

早く葬祭センターに運びたい。
同じような話を3時間くらい問答。
途中で嫌になり夫に任せて抜ける。
おばに電話。
各所に電話。
部屋に戻る。
警察との話が続く。
イライラしてきて「この話、まだかかります?」と思わず聞くw

終わったと思ったら主治医から死亡診断書の説明があると待たされる。えぇ!!まだ待つの!?
すげー待たされた。
ようやく終わり、エンゼルケアがあるからと更に待ち。
ロビーの長椅子でぐったり横になり各所に電話。
葬祭センターに電話。
お迎えに来てもらう段取り。
うんざりした頃霊安室に運んだと病棟から連絡。
地下の薄暗い廊下を歩き、霊安室につくまで怖くて何度も足が止まる。
顔を見る。やっぱり現実感がない。
もう葬祭センターの人が来てくれていたのですぐ搬送してもらう。

ようやく安置できた。
葬祭センターの担当者と打ち合わせ。
数年前の父の時と同じく最低限の形にしてもらう事に。
死亡診断書の左部分の死亡届に私が記入。
とにかく私が送り出さねばならぬのだ。

一体、これは現実なんだろうか。
1晩安置で、翌日お通夜の形で親類が集まる
。ゴージャスなお部屋で母と1晩泊まる。
父の時も同じ系列の葬祭ホールで、こんな部屋だった。
不謹慎ながら二、三日泊まりたいくらいのゴージャスなお部屋!
モデルルームの様なお部屋(の一角に祭壇)で
遠方から来た人もゆるりと休めるように至れり尽くせり。ありがたかった。

翌朝、叔母とお線香上げてたら初めて涙が出てきた。
「何でよ!1人にしないでよ!私も連れてってよ!」等々と
号泣を超え、錯乱?慟哭?誰も近寄れない程の勢いで初めて泣き叫んだんだ。
それで少し整理がついたかな。

でも冷たい手を触っても顔を触っても現実感がない。
え?何コレ?現実なの?と。。。
その後眉毛を整えて好きだった曲をYouTubeで流しながらフルメイク。

その時の長い連ツイです。
https://twitter.com/futaba_niji/status/1130279056673402880?s=20

大学病院がお迎えに来てくれ、残っていた親類みなで納棺。
見送る。母は行ってしまった。
呆気ないものだなぁと思う。

さぁ、これから彼女のやり散らかしたことを片付けていかねば。
まだ結果を出してくれていなかった保険屋に、
「母は亡くなってしまった。これ以上板挟みにはなれない。私が倒れたら訴える!」
と電話で強く出る。
その2日後、適用が決まったと連絡が来た。
ホッとして泣けた。

この後私は衰弱して寝込む。
救急車のりました
ヘルパーさんにお世話になる
の2つの記事に続きます。
良かったら合わせてお読み頂くと
あなたもふたばの中身に迫れますw